会場風景 提供:沖縄県立博物館・美術館
沖縄県立博物館・美術館では、コレクション展示のひとつとして「沖縄の彫刻たち」展が開かれている(会期:1月25日~10月19日)。
沖縄における近代彫刻の形成は、戦後に進展を見せた。そこで大きな役割を果たしたのが、絵画でも精力的な仕事をした玉那覇正吉である。玉那覇は沖縄県立第一中学校(現・首里高校)を卒業後、東京美術学校彫刻科塑造部で石井鶴三に学んだ。石井を通じて、オーギュスト・ロダンに触発された荻原守衛(碌山)や高村光太郎に連なる近代的な彫刻概念に接し、自らの造形論へと練り上げていった。その根幹にあるのは、表面的な見かけを模写する(似せる)のではなく、モデルから読み取った「量」の「解釈と表現」によって、生命的な実在感を導くという造形論である(*1)。玉那覇の首像や胸像をかたち作る塑造的なタッチの凹凸には、彫刻独自の造形言語によるそうした「解釈と表現」が介在し、モデルの二次的な写しにはとどまっていない。玉那覇が彫刻制作において芯棒(心棒)を重視していたことも、外的な表面の模倣を乗り越えようとする造形論と相関するだろう。在学時代に玉那覇が撮影した、石井や当時助教授だった笹村草家人の芯棒の写真も、本展に出品されている。
1946年に帰沖した玉那覇は、琉球大学美術工芸科での指導、芸術家グループや展覧会の組織など、様々なかたちで沖縄美術界の中核を担うひとりとなっていく。1963年には彫刻研究会「槐会」を結成。後進の作家たちと協働し、その第一回展に際しては高村光太郎の「彫刻十箇条」が引用された。宮城哲雄の《春望》の子供の頰の量感などに、玉那覇が石井から受け継いだ造形論との共振が感じられる。
たしかに玉那覇の彫刻観は、その多くを石井に負っている。だが元沖縄県立博物館・美術館副館長で美術評論家の翁長直樹が注意を促すように、「石井氏と異なるところは、玉那覇氏が描く絵画が常に沖縄戦などで亡くなった人々の鎮魂にあった」という点に留意すべきだろう(*2)。このことは、ひめゆりの塔の設計や「乙女像」「一中健児之塔」といった慰霊碑も多く手がけた玉那覇の、彫刻面での仕事にも通底している。
いっぽう、その後の沖縄における様々な彫刻実践もまた、玉那覇の造形論の直線的な継承にとどまらない展開を見せていく。本展ではそのひとつとして、「街と彫刻展」が紹介されている。その経緯はある面で、1980年代後半から90年代初頭における全国的な「彫刻のあるまちづくり」政策と、沖縄県立芸術大学の開学(1986)による新たなネットワークの形成が交差した帰結ともいえる。
「彫刻のあるまちづくり」の実施において彫刻を取得するふたつの主要な方法となったのが、屋外彫刻展と彫刻シンポジウムである(*3)。「街と彫刻展」の発足もこうした状況を背景としていたといえる。その組織を主導した丸山映と上條文穂は、ともに長野県出身の彫刻家で、それぞれ琉球大学と沖縄県立芸術大学で教えていた。長野での「佐久大理石彫刻家シンポジウム」(1989)への参加を機に親交を深め、91年に複合施設「パレットくもじ」が建設されたことで変容しつつあった、那覇の都市空間に応答するかたちで屋外彫刻展を企画。その活動団体として「現代彫刻研究会」を立ち上げた(*4)。
1992年に第1回の「街と彫刻展」が開催されたあと、プロジェクトは10年計画で毎年継続されていった。その間プロジェクト名を変えながら、活動網も沖縄本島に限られないものになっていく。とりわけ「琉球弧・美の渦流」と題した中期においては、奄美や伊良部といった「琉球弧」に連なる島々での石彫シンポジウムが開催されるとともに、台湾やペルーなど海外との交流展が始まっている。
沖縄県は1899年のハワイ移民を皮切りに、南米をはじめ世界各地へと多くの人々が海を渡った、有数の「移民県」として知られる。本展では、ハワイ生まれの沖縄系2世であるトシコ・タカエズと、アルゼンチン生まれの沖縄系2世で沖縄在住のフリオ・ゴヤが、沖縄にルーツをもつアーティストとして取り上げられている。
美術館の展示室を会場とする本展は、都市景観のなかで展開する「街と彫刻展」のような屋外彫刻展とは空間的な前提が異なる。だが出品作のいくつかが、なんらかの「風景」にまつわるものであることに着目したい。
丸山映の《風景シリーズ》には幾何的な直線と、浸食作用によって角が取れたような曲面が混在し、波多野泉の《城を葺いた男》は首里城復元に携わった瓦職人の肖像を通じて、赤く広がる瓦屋根を連想させる。
壺を柱状に積み重ねた立体から派生したともいえるタカエズの「森」シリーズでは、その内部に想像される空洞が彫刻の量塊性を和らげ、木々の伸びやかな上昇が方向づけられる。またゴヤの「サンゴシリーズ」は、複数の板の輪郭が交わることでいくつかの仮想的な=虚のボリュームを生成し、多孔質な珊瑚の軽やかさを導いている。
こうした「軽さ」は、水谷篤司の《とある風景 水平線2》にも認められる。長短様々な角材が束になってつくるテーブル状の水平面が切削され、海の波立ちが表されているが、数箇所の接地点のみで自立する彫刻は幽霊のように浮いて見える。ゆえにそれを、特定の空間座標に固定された場所ではなく、その場を離れても想起される「心象風景」と見なせるかもしれない。
水平線や地平線の強調は、シュルレアリスム絵画の様式的特徴のひとつでもある。空と海面、あるいは天地を分かつ1本の線に還元された、そこがどこなのか見定めがたい風景のなかで、異物めいた「オブジェ」があてどなく振る舞う。「幻想絵画」もこれに連なるものだ。「現代の幻想絵画展—不安と恐怖のイメージを探る」と題した展覧会が、1973年に本土「復帰」直後の沖縄に巡回すると、大嶺信一や川平惠造らが幻想絵画を手がけるようになった。砂浜とビーチパラソル——「復帰」後に急ごしらえされ「たった10年足らずで沖縄の風景として定着した」南国イメージに、川平は牛骨を描き入れ(《Now…(1)》)、「その風景の表層を引きはがし」た(*5)。「オブジェのある風景」は、風景批判としても作用するということだ。
「街と彫刻展」が「彫刻のある風景」を探求したとすれば、「オブジェのある風景」を立体で展開したひとりが新垣安雄だろう。1975年に「戦後30年を問うオキナワの痕」と題した野外個展で発表した作品群では、米軍流出品が「彫刻の台座」のような立体物と組み合わされた。しかしその「台座」のようなものは、弾痕が残された石塀のように一部がえぐられ、いわばそれ自体が破壊的に「彫刻」されるとともに、ヘルメットなどの事物と半ば一体化している。
固有の目的に沿って使用される本来の文脈から切り離された「流出品」の異様な存在感と、彫刻というジャンルの文脈(作品/台座が明確に区分されるという約束事)からの逸脱。言ってみれば、常態的な文脈=背景から二重に遊離したそれらは、(「道具」でも「彫刻」でもなく)「オブジェ」と呼ぶほかないような異物であり、一種の唐突さをもって1975年の風景のなかに出現したことだろう。この年には、「沖縄国際海洋博覧会」が復帰記念事業のひとつとして開催されている。復帰後の沖縄では振興開発計画のもと、公共投資による道路や空港の建設が活発化し、観光地化、リゾート化が進んだ(*6)。しかしそのいっぽうでは、いまなお広大な米軍基地が残り、不発弾が発見、処理され続けている。新垣の「オブジェ」にはまるで、そのような沖縄の終わらない「戦後」が圧縮されているかのようだ。
新垣の作品は本展に出品されていない。それは先に述べた、「彫刻」と「オブジェ」の緊張ゆえだろうか。2022年に同館での「FUKKI QUALIA―『復帰』と沖縄美術」展を企画した大城さゆりは、絵画中心の紹介となった同展で触れなかった彫刻と写真について、別の機会に検証されるべきとしていた(*7)。本展はそうした役割を担うものかもしれない。ただし各章の概要パネルを追うかぎり、本展では槐会展最終回(1978)への言及を除いて、1970年代の彫刻シーンに関する明示的な参照が見られない。だが、あたかもそれを補うかのように、展示室の手前には「FUKKI QUALIA」への出品作家として新垣がインタビューに応じる映像が流れていた。「沖縄の彫刻たち」の境界はこの映像によってもまた、展示室の外へと押し広げられている。
その意味で、上條文穂の出品作《漆喰の扉より—詞の柩—》は象徴的である。蒲鉾型の「柩」に納められた紙片の束が、両端から顔を覗かせている。収蔵庫で物が運び出され/運び入れられるようにも見えるさまは、奇しくも「収蔵品展」である本展の成り立ちと共振を見せる。上條は琉球漆喰に、何かを「封印」する材質性を感取し、それが門中墓の「入口」のイメージと合流したのだという。その「墓室内は『過去』という時間が収まっている。『過去』への入口は漆喰によって封印されているが、ある日開封される。それは『現在』が運び込まれる瞬間である。『現在』が設置された隣には次の「現在」を待ち受ける『未来』のために空間が開けてある。その日が来るまで過去という時間はまた漆喰によって封印される」(*8)。このように表現される営みは、ミュージアムやアーカイヴ施設における作品や資料の収集、保存、展示公開といった活動と無縁ではないだろう。
こうした類縁を確かめるかのように、上條の作品は沖縄県公文書館(南風原町)の正面にも設置されている。《土の館》と題されたそれは漆喰ではなくテラコッタによるものだが、楔を打ち込まれたようなその「館」はやはり「封印」と「開封」の現場であるように見える。
この公文書館には、沖縄戦時やアメリカ統治時代に米側により記録された資料も保管されている。それだけではない。本展出品作家でもある上條や儀保克幸ら彫刻家の作品のすぐそばには、一本の「楕円柱」が横たわっている。かつて施政権返還や振興開発、基地問題などが議論され、1999年に取り壊された琉球政府立法院の柱だったものである。変わりゆく沖縄の風景を記憶するこの事物は、公文書館の——首里城と同じ——赤瓦屋根、それと呼応するように赤みがかった上條の彫刻との間に、一種の緊張を漲らせながら場を占めている。展示室の境界から垣間見えたのは、慰霊碑やオブジェ、建てられたものや壊されたものと交錯し、ときに重なり合いながら、「沖縄の彫刻たち」が形づくる風景だった。
*1──玉那覇正吉「彫刻に就いて(主として鑑賞を中心に)」『沖縄近代彫刻の礎 玉那覇正吉展 —彫刻と絵画の軌跡—』、沖縄県立博物館・美術館、2012年、160頁。
*2──翁長直樹「玉那覇正吉 —求道精神の源泉と欧米・近代との再会—」、同上、18頁。
*3──藤井匡「屋外彫刻のこれまでとこれから」、冨井大裕ほか編『彫刻の教科書2 わからない彫刻 みる編』、武蔵野美術大学出版局、2024年。
*4──玉那覇英人「上條文穂の彫刻表現について—素材との対話—」『上條文穂と波多野泉 現代彫刻展 上條文穂』、沖縄県立博物館・美術館、2019年。現代彫刻研究会の発足経緯と活動の詳細については、次を参照。玉那覇英人「80年代以降の沖縄彫刻の変遷について—現代彫刻研究会の活動を通して—」『沖縄県立博物館・美術館 美術館紀要 第5号』、沖縄県立博物館・美術館、2015年。
*5──翁長直樹「川平惠造——表層の風景を超えて」『沖縄美術論——境界の表現 1872-2022』、沖縄タイムス社、2023年、248頁。
*6──こうした近代化政策がもたらす「風景」がしばしば、ステレオタイプ化された眼差しと結びつくことにも留意する必要があるだろう。ハワイ出身の沖縄系3世の父をもつアーティスト/研究者であるローラ・キナは、すでに世を去ったトシコ・タカエズに宛てて書いた「手紙」のなかで、「首里城のシンボリズム」の複雑さに触れている。キナによれば、それは彼女を含む多くの「島人」(ディアスポラも含む琉球諸島の人々)にとってアイデンティティの象徴であると同時に、沖縄文化を「日本の民族的想像力のエキゾチックで多文化的な延長」として賛美するために中央政府が利用するものでもあるという。その際立った例として、新千年紀と第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)を記念し、表面に首里城守礼門を配して発行された二千円紙幣が挙げられる。キナはジー・M・ルーや豊見山愛の議論を参照しつつ、日本の庇護下で花開いた琉球文化という語りや、復帰20周年に際し首里城を国営公園として整備した1992年の手続きが帰結させうる、支配の歴史の曖昧化や忘却に注意を促す。そして、公式化されていない「島人」の歴史を記録し心に描くことがアーティストとしての仕事であるならば、「国民国家の外側で主権を再概念化する」ためにこの歴史をいかに想像できるだろうかと、タカエズに問いかけている。(Laura Kina, “Shimanchu Imagination: Letter to Toshiko Takaezu,” Glenn Adamson et al. (eds.), Toshiko Takaezu: Worlds Within, Yale University Press, 2024, p. 238.
*7──大城さゆり「FUKKI QUALIA——「復帰」にまつわる感覚をさぐる」『復帰50年コレクション展 FUKKI QUALIA——「復帰」と沖縄美術』、沖縄県立博物館・美術館、2023年。
*8──砂川泰彦「上條文穂 研ぎ澄まされた造形力—素材との対話から生まれた彫刻—」『上條文穂作品集』、上條文穂作品集編集委員会、2019年、3頁。
勝俣涼
勝俣涼