左からレオナルド・ビュルギ・テノリオ、中島りか、モニカ・ステューダー、クリストフ・ヴァン・デン・ベルク 撮影:灰咲光那(編集部)
トーキョーアーツアンドスペース本郷(TOKAS本郷)で8月23日から、展覧会「TOKAS Project Vol. 8『絡まりのプロトコル』」がスタートした。
スイス・バーゼルのアートスペース「アトリエ・モンディアル」や東京で、レジデンス・プログラムに参加した3組のアーティスト、レオナルド・ビュルギ・テノリオ、モニカ・ステューダー/クリストフ・ヴァン・デン・ベルク、中島りかによるグループ展。
本展の企画者である大島彩子とアーティストらに作品や本展について話を伺った。
2001年創設のトーキョーアーツアンドスペース(略称TOKAS、当時の名称は「トーキョーワンダーサイト」)は、東京から同時代の表現を創造・発信するアートセンター。本展の会場である「TOKAS本郷」と、滞在制作やリサーチ活動を行う「TOKASレジデンシー」の運営や、海外での活動に意欲をもつ中堅アーティストを対象とした賞「Tokyo Contemporary Art Award」を主催し、国内外のアーティストをサポートしている。
TOKASの企画展である「TOKAS Project」は、アーティストやキュレーター、文化機関との国際的な交流を促進し、多文化的な視点で、アートや社会など、多様なテーマについて思考するプログラムだ。8回目となる今回は、バーゼルとのレジデンス・プログラム15周年を記念し、過去にこのプログラムに参加したアーティストのなかから3組を紹介する。
企画したTOKAS学芸員の大島彩子は、「展覧会のタイトルにある『絡まり』とは、私たちが生きる世界そのものが、様々な要素が変容し続け、まさに絡まりあいながら動き続けていることを表している」と話す。
「人間はつい、自分たちを中心とした価値観で物事や世界を見てしまいがちですが、たとえば目に見えない微生物の存在や、自然の中での様々な営み、ものすごいスピードで膨大な情報が行き交うデジタル空間など、私たちの手が及ばないような場所や世界が存在し、そこから影響を受けています。また、自ら作り出した社会における価値観や制度、仕組みなどに対しても同様に、ほぼ無意識的に適応し、日々の行動や思考につながってもいます。
本展に参加するアーティストたちは、それぞれのテーマで、私たちの知覚や存在の輪郭がどのように揺れ動くのか、視覚・聴覚・身体感覚を介して表現しています。『人間であり続けること』の不確かさと豊かさに目を向け、絡まりあい、生成され変容し続けていくプロセスをとらえ直すような機会につながれば、と考えています」(大島)
ワンフロアごとに1組のアーティストが展示する構成の本展、1階から3階へと順に紹介する。
自然環境における文化と自然の現代的な定義づけを主題に制作するビュルギ・テノリオは、近年、菌糸の役割に注目し、生物の生長や腐敗のプロセスを多様な手法を用いて表現してきた。
稲わらの香りが広がる展示室に一歩入ると、天井近くまで積み重ねられた稲の束が、オブジェのようにそびえ立っていた。まるで意思を持って動き出しそうな存在感だが、よく見ると新米がたっぷりと実っている。収穫を終えた稲田で、稲穂を下に向けて吊るし、自然乾燥させる伝統的な技法「稲架(はさ)掛け」から着想したインスタレーション《アニマ》だ。展示室には作家自身がフィールドレコーディング・編集した音源が流れている。
ビュルギ・テノリオは、2024年冬にTOKASレジデンシーで滞在制作を行った際、日本の食文化のひとつ、麹と発酵についてリサーチ。本展では麹菌の一種であるニホンコウジカビに着目し、同じく日本食に欠かせない米や稲との密接な関係について探究を重ねた。今年7月には、鹿児島県内の農家のもとに2週間ほど滞在したという。
ちなみに、ニホンコウジカビの学名は、アスペルギルス・オリゼ。オリゼとは米を意味する。2006年に日本醸造学会で「国菌」に指定されたほど、ありとあらゆる食材に関係する麹菌だ。
「はるか昔、毒性の強いアフラトキシンを産生する近縁種と遺伝的に類似していながら、ニホンコウジカビは進化の過程で無毒になったのです。和食文化に欠かせない存在になったことを考えると、非常に興味深い進化の物語です」(ビュルギ・テノリオ)
展示室の壁面には、紙とアクリル板、杉材とアクリル板がレイヤーになった平面作品が、新作として展示されている。自然物と人工物、いわば真逆の素材を対比させて組み合わせており、物理的にも見る角度によって様々なものが見えてくる。ビュルギ・テノリオは、開幕初日に開催されたアーティストトークでも、対比関係にある存在について触れた。
「味噌や醤油、酒などを作る過程で欠かせない麹は現代の食品製造と衛生管理の概念で考えれば、すぐに取り除かれるべき存在なのに、味噌蔵や酒蔵になくてはならないもので、長い年月の間、建物内を漂い続けています。
また、国内の製造工場のひとつを見学しましたが、近代化された工場内で製造された麹が、昔ながらの伝統的な空間で、味噌や醤油作りにいかされていたのが印象的でした。こういった対比を示唆するように、また、物事を見る・とらえる場所によって印象や見えるものが変化することも表現しています」(ビュルギ・テノリオ)
そして、杉材を使った木彫の新作《存在の肖像》は、立体と平面の間のようでもあり、抽象的な表現だ。滞在した地域に根付く石像「田の神」を祀る土着信仰がモチーフになっているという。
「私たちにとって、麹のような“存在しているが、目に見えないもの”を認識することは簡単ではありません。しかし、伝統的な農業が行われている地域で、脈々と続けられてきた儀式的なものや風習など、何かしらのかたちを与えることで、目に見えないものを認識できるようになるとも言えるのかもしれません」(ビュルギ・テノリオ)
本作は、農村や稲作へのイメージや記憶、日本の発酵文化や食の歴史など、鑑賞者一人ひとりがもつ体験によっても、とらえ方や見え方が大きく変わりそうな空間と言えるだろう。
1990年代よりコンピューター・グラフィクスとプログラミングを用いて仮想環境と現実環境を往来する作品を制作してきたステューダーとヴァン・デン・ベルクは、2013年にレジデンス・プログラムでトーキョーワンダーサイト青山に滞在。彼らが見せる色鮮やかなヴァーチャル空間は、あくまで虚構世界として存在している。
しかし、本展で展開されている「FOWDIB(The Foundation Woodhead for Digital Consciousness/ウッドヘッド・デジタル・コンシャスネス財団)」の様々な研究成果や、関係者へのインタビューを交えた映像は、鑑賞すればするほど、秘密裏に活動を続けているという説明に納得し、世界のどこかでいまも研究が続いている、とつい思ってしまうほどの内容だった。
「科学の言語を模倣することで、私たちは『これは理にかなっているのか?本気なのか?』と疑問に思う空間を作り出しました。重要なのは、人々を物語に引き込み、そして優しく混乱させることです」と、ふたりが語る通り、筆者は最後まで少々混乱したまま鑑賞した。
「私たちが現在、長期プロジェクトのひとつとして取り組む、架空の研究所『FOWDIB』は思索のための枠組みです。人間以外の存在、たとえばAIが心を持ったり、幻覚を経験したり、といったことが起こり得るのか。私たちが実際にリサーチしたリアルな情報も混在させつつ、テキストのプロンプトを作成し、AIで生成しています。インタビュー映像ももちろんAI、モキュメンタリーです。
これらはフェイクではなく、様々な科学的な疑問を、SFや視覚芸術的な文脈で提示するためのストーリー。ここから、ポストヒューマニズムの思考に密接に関連するトピック、科学的神話の創造やテクノスピリチュアルな信念体系、あるいは知識を創造することへの考察が深まるでしょう」(ステューダー/ヴァン・デン・ベルク)
展示室の天井から掲げられた巨大なテキスタイルには、不思議なデザインの生命体がカラープリントされている。じっくり観察を続けると、見覚えのある日用品が身体のあちこちに用いられていることに気づく。
「じつは日本の妖怪に興味があるんです。今回の新作《HALLUC生命体》は、AIの意識のなかにも、人間が思う妖怪のようなものが存在しているのか、そもそもAIは妖怪という意識があるのか。そんな疑問も抱きながら取り組んでいました」(ステューダー/ヴァン・デン・ベルク)
ゴーグルを装着して体感するVRインスタレーション《HALLUC》では、「FOWDIB」の研究成果になぞらえて、テキスタイル上の生命体とは異なりながらも関連性のある、AI生成の生命体たちがリアルタイムでコミカルに動き回る仮想空間に遭遇できる。
「《HALLUC》は鑑賞者がAIの仮想的な幻覚の中に没入できるという作品です。デジタルの潜在意識、あるいはテクノロジーが夢を見ている状態を垣間見るかのようなものとも言えます」(ステューダー/ヴァン・デン・ベルク)
何がフィクションでドキュメンタリーなのか。どこからがAIで、どこまでが人間によって作られたものか。そもそもこれは現実なのか。この先、未来の私たちの暮らしにおいて、AIはどんなことを担っていくのか。様々な問いが浮かんでは消え、ぐるぐると思考がめぐる作品群だ。
プライベートの拡張をテーマとしたパフォーマンス作品を発表し、国内外で意欲的に活動する中島は、資本主義や都市空間に存在する“公私の境界(閾=いき)”の表現をテーマにしてきた。
2024年4月、レジデンス・プログラムでアトリエ・モンディアルに派遣された際、安楽死を選択した人物の家族に出会い、彼らへのインタビューをきっかけに、これまで探求してきた個人と社会との関係性に加え、公共空間において自己決定や個人の権利が尊重されることへの思索を続けている。
展示空間は、非常灯に合わせて人工的に作られた緑色の光から始まり、展示室を進むにつれて窓から注ぐ赤色の光へと変化する。赤色は天気や時間帯により光の加減が変わり、人の意思によってコントロールすることはできない。
さらに中央には、スクリーンとバランスボールが置かれた半個室がふたつ、向き合うように設置されている。鑑賞者はバランスボールに座りヘッドフォンを装着すると、片方では死を選択する個人、もう片方では死を受け入れる個人それぞれの立場からのモノローグを聞くことになる。呼吸音や心音に連動して床が振動し、バランスボールを伝って身体に響くと同時に、半個室の外側の空間全体にも複数のレイヤーが交錯するサウンドが流れる重層的なインスタレーションを体験する。
「過去作品の中でも赤と緑の色や光を使用してきましたが、今回は信号機の色の意味合いに寄せています。緑の光はゴーサインを意味しますが、今回のリサーチで、安楽死の承諾が下りた際に支援団体が『グリーンライト』という表現を使っていることを知りました。かつてアトリエ・モンディアルで展示を行ったときも、緑の光の空間演出をしましたが、今回はそもそも安楽死という選択肢がない日本で、どのように表現したらいいか、検討を重ねました」(中島)
それは、“安楽死”という言葉そのものについても言える。スイスの法律では“自殺ほう助”という言葉を使用しているが、日本の学術文献では自殺ほう助も含めて安楽死と総称することが多く、また一般的な理解を考慮して、本展では“安楽死”または、“安楽死(自殺ほう助)”と表現としたそうだ。
安楽死(euthanasia)とは、ギリシャ語の「eu(いい、正しい)」と「thanatos(死)」が語源だが、中島は「ドイツ語圏のスイス・バーゼルでは、その言葉はタブーなのです。言語的に、ナチス・ドイツが障害者などに対して行った政策『T4』の安楽死プログラムで使用された歴史と結びついていると、スイスに滞在して初めて知りました。個人の死が第二次世界大戦中の歴史ともつながっていると気づいたことで、複雑なレイヤーからなる作品の構造が固まってきました」と説明する。
展示室の壁面には、国際人権規約の第1条と日本国憲法第13条の文言が対になって掲げられている。
「このふたつを読み、日本国憲法にある“公共の福祉に反しない限り”という言葉が、まさに日本における都市空間を象徴していると思いました。スイスなど西洋の国々と日本の、公共空間における個人の権利の扱い方、質のようなものがなぜこんなにも異なっているのだろう、と思っていましたが、その差異が端的に表れている議論のひとつが、安楽死をめぐるものなのではないでしょうか。
制度として認められているとはいえ、スイスでも安楽死について誰もがオープンに語っているわけではありません。それに関わる人たちにとって悲しく、とても辛いことなのは、スイスも日本も同じでした。それでもスイスでは個人の権利として認められているいっぽう、日本では法改正に向けた議論のテーブルにすら上がっていません。
様々な個人の決定や権利が、“社会” や “家族”、“みんな”という“不在の言葉”によって、どこかもみ消されてしまっているような状況に、私は疑問を抱いています。この作品が、そこに目を向けてもらうきっかけになれば、と考えています」(中島)
自然界に存在しているが、人間の肉眼では見ることのできない存在。現実と混ざり合いながらも実体としては存在しない、デジタル空間における存在。そして、個人の意思決定や行動に知らず知らずのうちに作用している、社会の制度や歴史から一人ひとりの思考が作り出している、見えない存在。
3組のアーティストがもたらす多様な存在が、自分自身でも気づかないまま凝り固まっていた物事のとらえ方を、大きく揺さぶってくるような展覧会だ。
Naomi
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