弓指寛治。右は、《香坊へ通った》(2025) 木枠パネル、油彩
弓指寛治の個展「弓指寛治 不成者 :現代アートが描く義勇軍」が、茨城の水戸市内原郷土史義勇軍資料館で開催されている。会期は10月26日まで。
1931年9月、日本の関東軍は、中国・奉天郊外で南満州鉄道を自作自演で爆破し(柳条湖事件)、これを中国の犯行として中国東北部(満州)を占領、翌年に満州国を建国した。「満蒙開拓青少年義勇軍」は、日本が国策によって満州移民を推進するなかで、14歳〜18歳の少年を満州に送り、開拓や辺境警備を担わせた制度だ。本展の会場がある内原は、当時、義勇軍の訓練所が建てられていた場所。この地から約8万6千人の青少年が渡満したが、ソ連侵攻やシベリア抑留などで約2万4千人が死亡されたとされている。水戸市内原郷土史義勇軍資料館は、内原地区の歴史・民俗と訓練所の史実を後世に伝えるため、2003年に開館した。
義勇軍隊員だった祖父を持つ弓指は、これまでも個展「マジック・マンチュリア」(銀座 蔦屋書店)や、「奥能登国際芸術祭2023」での《プレイス・ビヨンド》、「南飛騨 Art Discovery」での《民話、バイザウェイ》など、満州開拓民をテーマとした作品を発表してきた。今回は、戦後80年の節目にあたり同資料館に招かれ、自身の故郷・三重県から送出された五十鈴義勇隊開拓団の隊員だった市川力三さんの体験に焦点を当てた新作62点を制作した。
弓指が満蒙開拓をテーマとした作品に取り組むきっかけとなったのは、母の自死という経験を経て作品制作に取り組むなかで、祖父から満州での話を聞かされたことだった。当初は祖父の話を信じていなかったが、のちにそれが事実だと知った。
「目の前におるじいさんが、じつは戦争に行っとった。義勇軍としてしっかり加担しとったと聞いたとき、自分のルーツのようなものを垣間見た気がしました。同時に僕はそれまで義勇軍の存在さえ知らなかった。多分いまでも日本のほとんどの人は知らない。でも満州に渡った少年たちは8万人もおって、約2万人が亡くなっている。そのときまで満州について考えようともしていなかったので、『それはさすがにな』という思いがありました」
さらに「満州開拓の父」と呼ばれ、義勇軍訓練所の所長を務めた加藤完治が、自分と同じ「かんじ」という名前だったことも関心を後押しした。
「僕は小さい頃から馬鹿にされたりしていたから、自分の名前がすごい嫌やったんです。加藤完治は同じ名前だったのでどこか引っ掛かりがありました。義勇軍を訓練した人だと知ってから、悪い人じゃなかったらいいなと思っていたのですが、資料館に来てみたところ、すごく慕う人もいれば批判的な人も多くいる、両義的な側面を持つ人だとわかりました。『良い部分も悪い部分もあった』では汲み取れへんものがいっぱいあって」
自身の祖父にまつわる個人的な体験と、加藤完治という人物への関心が、満州をテーマにした作品制作へとつながっていった。
「アートは『あれが良かった、あれが悪かった』と判断を下すものではないと僕は思っています。もちろん政治的に活動する作品も良いと思うのですが、それだけではないものを見せたいという気持ちが強くあります。満州は切り取り方によって見え方も違って、語るべきものがいっぱいある。自分にこのきっかけがあるならやってみようと思って少しずつ進んできて、いまがあります」
今回の展覧会は2部構成。資料館内で展開されている第1部は、元義勇隊員・市川力三さんの手記をもとにした作品群だ。三重県で生まれ、内原で訓練を受けて満州に渡り、終戦を経て帰国するまでの波瀾万丈の人生を、手記を引用したテキストと、その場面や象徴的なモチーフを描いた絵画で紡ぐ。
展示室と展示室のあいだには金色のテープが吊り下げられており、その手前が三重から内原まで、テープをくぐると満州でのストーリーが広がる。
弓指は、祖父の軌跡を調べるなかで、中隊誌に収められた力三さんの言葉と出会い、その文体や書かれている内容に惹かれたのだという。力三さんの文章は、「不良少年」「悪人・大陸に送られる」「満州人に成りきれずに入営」といったどこか文学的な見出しや、自分を俯瞰するような独特の語り口が魅力的だ。奉公先の大阪で盗みを働いたり、一時は浮浪児になったり、満州ではアヘン窟で出会った老女と交流を深めるなど、大きな歴史からは想像もつかない個人の物語がギャラリー全体を使って展開される。
当時、国や地域をあげて義勇軍への勧誘が行われ満州に渡った若者たちは、過酷な運命に直面した。いっぽう満蒙開拓は現地の人々から奪った土地を開拓地としたことも多く、かれらは日本の加害行為にいやおうなく加担することとなった。
「被害と加害」は、弓指がこれまで取り組んできたテーマでもある。2019年の「あいちトリエンナーレ」での展示「輝けるこども」では、複数の小学生が亡くなった実際の交通事故を題材に、被害者遺族への取材に基づいて、事故の「被害者」だけでなく、「加害者」や自動車の持つ暴力性にも目を向けた。
「『あいちトリエンナーレ』は、交通事故における被害者、加害者を扱った作品でした。母が自殺するきっかけになったのが交通事故だったので、僕は事故の被害者側。そうすると突っ込んだ側が加害者で、法的に裁かれたりする。でもぶつかっているのは車と車なので、車のことを抜きにしては語れへん。それで『被害』や『加害』をずらした第3項として車のことを考えました。
満州でも中国人の人たちは被害者で、日本人は侵略している側というとらえ方がまずはできるけれども、中国人と言っても満州人と漢民族では立場が違う。さらに日本人でも、満鉄(南満州鉄道)の社員もいれば、憲兵みたいな軍人の上の立場の人もいるし、力三さんのような義勇軍の隊員もいる。立場が全然違うから見える景色も違うやろうし、そういったことがもっと複雑に絡み合ってるのだということは今回の展示でも感じています」
絵によって物語り、鑑賞者に実在の人物の経験を追体験させる弓指の作品は、本展において資料館の収蔵品とも響きあう。
会場では、作品とあわせて実際の義勇軍の合格証書や募集要項、隊員が着ていた服や使っていた物、街の風景写真などが展示されている。もともと資料館に常設展示されていた資料をすべて力三さんの物語の時系列にあわせて並べ替え、展示し直したのだという。
資料の持つ力と芸術の持つ表現が互いに補完しあう、「ここでしかできない展示」だと弓指は語る。
「満州国はもう存在していないから、満州について考えることはなくなっていきますよね。でも、そこには街があって、暮らしていた人たちがいた。そこでどんな交流があったのか、描くうえでは想像するしかない。ただ、もちろん資料はあるのですが、資料だけあっても想像しづらいと思うんです。
今回の展示では、力三さんの手記をもとにした絵でイメージが描き出されていて、文章のなかには絵に描かれていない要素もあるから、来場者はどうしても想像しながら歩くと思います。たとえば、文章でいよいよ渡満が迫ってきたことがわかって、その絵の横に実際に使われた背嚢が置いてある。そうするとやっぱり見てる側の入り込み方が違うと思うんですよ。義勇軍から寄贈された大連の街の資料も、それだけだと地図でしかないのですが、『力三さんが大連にたどり着いた』と書いてあって、その横に地図があったら『ここなんや』って思うはず。もしかしたら、資料館で資料の価値を最大限に引き出すことができるのが創作物なのではないかと、今回の展示を通して感じました」
力三さんの文章は「日本に戻り、家で食べた団子に文句を言っていたら帰国早々に怒られた」という内容で幕を閉じる。その文体や劇的なエピソードのインパクトが強い分、鑑賞者の関心は、戦争の悲惨さや義勇軍の歴史よりも力三さんのキャラクターにより引きつけられるかもしれない。「彼の魅力的な文章と魅力的な交流を表現して、ここで展示を終わらせることに対して、違うんじゃないかという危惧はたしかにありました」と弓指は語る。
そこで作られたのが、ギャラリーの外と復元日輪舎(義勇軍の宿舎だった日輪兵舎をモチーフにした建物)へと続く、第2部だ。
第2部は、弓指と資料館館長・関口慶久のLINEのやりとりを絵画化し、復元日輪舎へと続く道と建物の外壁に展示。絵をたどって最後に日輪舎の中に入ると、力三さんが迎えていたかもしれない結末が明らかになる。力三さんは済州島の部隊に編入され戦闘を経験せずに終戦を迎えたが、もとの部隊は満州でほぼ全員が死亡していた。手記に書かれていない部隊の足跡をリサーチした関口からのLINEメッセージがそのまま絵画となり順番に並べられていることで、鑑賞者は弓指がその事実を知った過程を追体験することになる。
「力三さんはすごくのらりくらりとした人やから、さも余裕で帰ってきたかのように書いてあったけど、その裏では本当にギリギリのところだったんです。もし部隊が変わらず力三さんが満州にとどまっていたら、たぶん生きていない。そのことが関口さんに調べてもらってわかったので、そのまま作品にしたほうが良いと思いました。(手記に戦闘が書かれていないからといって)もっと大変な目に遭った別の人を探すのではなく、あくまで力三さんという人を通して『戦争の恐ろしさ』を描く方法を、関口さんと一緒に考えたようなものです」
「もし配属が変わらなければ命を落としていたかもしれない」という現実は、戦争の結果が必ずしも因果応報ではないことを表していると弓指は言う。
「戦争は因果応報だってなんとなく思うじゃないですか。でも悪いことをしとったら報いを受けるというのなら、力三さんはろくでもないことをしているから死んどると思う。だけど彼は生きて帰ってきている。同じ部隊のなかにすごく良い人もいたかもしれないけど、その人はたまたま満州に残されて、ソ連が侵攻してきて激戦の末に死んだ。戦争はそのような、僕らの想像なんてはるかに及ばないところで、因果応報ではない出来事が起こるものなんじゃないかなと思ったんです。
だから力三さんののらりくらりとした話と、でもじつはギリギリのところやったという部分の両方が見えることで、戦争の怖さがわかる。ひとつ別の方向に視線を向ける展示として第2部があると思っています」
本展の制作は、7月まで銀座のFOAM CONTEMPORARYで開催されていた個展「4年2組」と並行して進められた。「子供たちと戦争について考える」というテーマのもと、昭島市立光華小学校4年2組に弓指が「クラスメイト」として通って取り組んだプロジェクトだ。
子供たちは、自身だけでなく親や祖父母も戦争を知らない世代。かれらとの交流も本展の制作に影響を与えた。
「クラスの男の子のひとりが『俺らって戦争行かなくていいんでしょ。だって俺は子供じゃん』って言ったんです。彼らは10歳ですが、義勇軍の人々は15歳くらいで戦争に行きました。それで『お前が15歳になったときに戦争が起きて、もし日本が巻き込まれとったら、たぶん戦争に行く側の人間やと思うよ』って話したとき、力三さんと小学生が重なって見えたんです。こういう子たちが戦争に行くんやな、それはやめてほしいな、とすごくリアリティをもって感じました」
「4年2組」展では、戦争について家庭などで話を聞いたことがない生徒が多いという授業の発表資料も展示されていた。弓指はつねに自身の展示やそのテーマにまったく興味がない人々を観客として想定し、その関心を引くための展示方法を考えているという。
「僕なりのやり方として、エンタメ的な部分はすごく意識しています。やっぱり来た人に面白いと思ってもらいたいし、そのなかにすごく大事なことが散りばめられている。現代アートをやっている人たちのなかには、説明するのはダサいという空気もあるかもしれないけれど、僕はあの手この手で『ここがこうなってるんです』って伝える作りにしています。そうでもしない限り、誰も義勇軍に興味を持たないのではないかとも思います。
でも、力三さんという人を通して義勇軍のことを知ったら戦争への理解も深まるかもしれない。今後もし日本の状況が悪くなったときに、『あれ? 満州のときの話と似てない?』って考える可能性もある。過去に起きたことを学び、現代がその状況に近づいてきたと認識して初めて、『やばい』と思えたりする。そこまでいってやっと過去の戦争が、良い意味での教訓のようなものになるんじゃないかなと思うんです」
本展の企画は「『現代アート×義勇軍』という、新たな記憶の継承のあり方」と銘打たれている。その背景には戦争の記憶を持つ語り部が年々減っていく現実がある。次世代へ記憶を継承していくことは、戦後80年の現在も大きな課題となっている。
弓指は「4年2組」で、かつて地域で作られていた飛行機や街に残る戦争遺構について、子供たちに絵とともに語って見せた。その際、かれらがその事実を受け止め、自分なりに考えを巡らせていたという手応えを得た。
「それは戦争を大きな歴史のなかで語ることとは違うかもしれないけれど、そういうかたちでの戦争へのアプローチってもっとある気がするんですよ。やり方はまだあるから、年齢的に戦争を実感として考えられなかったり、それを語る人が死んでしまったから語れなくなったりするのかというと、かならずしもそうではないのではないかと、今年の夏は思い始めるようになりました」
「クラスメイト」の少年の「戦争の話って悲惨で悲しいから聞きたくない」という言葉も印象に残っている。
「戦争の悲惨さや悲しさを伝えることはもちろん大事だけど、その時代を生きた人の人生そのものが悲惨なわけじゃない。だから、ひとりの人間の歩みのなかに戦争の時代があったととらえることができたら良いのではないかと思っています」
なお本展では、出品作品の全点を水戸市のふるさと納税の返礼品とする試みも行われている。関口館長は、資金難にある資料館が作家に十分なフィーを支払い、「博物館と作家が共生し、持続可能な文化活動を実現するためのひとつのチャンレンジ」と位置付ける。
満州へ渡ったひとりの青年、市川力三さん。弓指寛治は、戦争の巨大な歴史の中にたしかにあった個人の生を絵と物語に置き換え、現代の私たちに提示する。「一度展覧会をやったからといって『満州がこうだった』とは言えない」と弓指。今後も様々な角度からアプローチしていきたいと意欲を見せた。
展覧会の会期は10月26日まで。会期中は、弓指と力三さんの親族によるワークショップや、戦争関連の史跡をめぐるツアーなど関連イベントも予定されている。
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