会場風景
神奈川県立近代美術館 葉山にて、日本の写真界の最前線で活動を続ける写真家・上田義彦の大回顧展「上田義彦 いつも世界は遠く、」が11月3日まで開催中。
上田義彦は1957年兵庫県生まれ、神奈川県在住。1979年に大阪写真専門学校(現:専門学校大阪ビジュアルアーツ・アカデミー)を卒業後、写真家の福田匡伸、有田泰而に師事し、1982年に独立した。商業写真と作家活動の両輪で高い評価を得ており、日本写真協会作家賞をはじめ、東京ADC賞、ニューヨークADC賞など国内外で数々の受賞歴を持つ。
代表作は多岐にわたる。ネイティヴ・アメリカンの聖なる森をとらえた『QUINAULT』、前衛舞踏家・天児牛大のポートレイト集『AMAGATSU』、自身の家族にカメラを向けた『at Home』、生命の源をテーマにした『Materia』など、つねに新たな表現領域を開拓し続けてきた。2021年には初の映画作品『椿の庭』で脚本・監督・撮影を手がけるなど、その創作意欲は写真の枠を超えて広がっている。
本展は、40年にわたる活動を約500点におよぶ作品によって総覧する、公立美術館においては約20年ぶりの展覧会である。未発表の初期作品をはじめ、代表シリーズに加え、これまで展示の機会の少なかった映像作品、さらにはチベットの人々を撮影した最新作まで、上田自身によって現像とプリントが手がけられたすべての作品とその活動の全貌を見ることができる。
会場に足を踏み入れると、一見無作為に飾られた写真群が視界に飛び込んでくる。額もサイズもモチーフもバラバラでありながら、ひとつの空間に集まったこれらの作品は、交響曲のように不思議な調和を奏でている。「知らないことから始まったら少し戸惑うと思いますが、僕は面白いと思うんですね」と語る上田。回顧展では代表作が冒頭を飾ることが多いが、本展では時系列でもシリーズごとでもなく、最新作から40年前へと時を遡る構成となっている。そして最初に観客を出迎えるのは〈チベットの蜜蜂〉という最新作だ。
このシリーズには、長い時間をかけて醸成された思いが込められている。「チベットやインドは、写真を始めた頃からすごく行きたかった場所でした」と上田は振り返る。しかし1970年代、多くの写真家がインドやチベットを訪れ印象的な作品を発表するのを見て、同じような写真を撮ってしまうのではないかという懸念から、長い間その地を踏むことを躊躇していた。
「自分も行くとそういう写真を撮っちゃうんじゃないかと思って、40年間行かずにいました」。やがて「収穫をする人々を撮りたい」という思いが生まれると、上田はためらうことなくチベットへ向かった。
標高5000メートルを超える高地で撮影されたこれらの作品には、家族が力を合わせて収穫に取り組む姿が写されている。「人が収穫をすることの喜びを撮りたいと思ったんです。収穫する喜びは、人間が生きていくなかですごく根源的な喜びだと思います」と上田は解説する。そしてシリーズタイトルのきっかけとなったのは、旅の最後にお寺で花を撮影していた際、ファインダーに飛び込んできたミツバチだった。「人間の収穫も、ミツバチの収穫も一緒で、命を続けていくための根源的な喜びなんだと。タイトルはそのときに教えてもらったような感じです」。
同じ空間には1987年のシリーズを経て、新たに撮影された〈果物〉の数点も並ぶ。これらの果物には、見た目の美しさを超えた収穫の喜びが込められているという。〈果物〉や〈林檎の木〉など、会場を巡れば離れた作品が同じテーマでつながっていくのが見えてくる。
ラテン語で「母・源」を意味する「Māter」。月光だけが照らす夜の森で、上田は滝や渓谷などを撮り続けた。ここには上田が長年追求してきた世界観が表れている。水も人体も地球も、すべては太古から連綿と続くひとつの生命体の断片に過ぎないというまなざしだ。
本シリーズは、1990年の〈Quinault〉から2017年の〈林檎の木〉まで一貫して探り続けてきた「命の大元」への探求の延長線上にある。とくに印象的なのは、満月の夜に撮影された水の連作だ。照明を一切使わず、月光だけで撮影されたこれらの作品は神秘的な美しさを湛えている。
「森や海を撮っていますが、地球というひとつの生命体をずっと探っていると思います。たとえば岩の隙間から出てきている水は止まることがないです。人間の血液も死ぬまで動いています。撮影中は命の運動を見ているんだろうなと思いました」(上田)
月という古い光源が照らし出すのは原始的な記憶であり、闇に沈む世界から浮かび上がる生命の動きは、現代の私たちが忘れかけている地球の奇跡的な美しさを静かに思い起こさせるのだ。
これらの作品を収める額縁にも、上田の強いこだわりが込められている。「額縁がすごく好きなんです。必要なもので、大事なものだと思っています。装飾というよりも、見ることに集中させるために重要ですね」。〈Māter〉シリーズの額縁を決めるまでに2年ほどをかけたと語る上田。試作を重ねながら作品と額縁の関係性を慎重に検討する姿勢からは、写真への深い思いが感じられる。
さらに会場を進むと、コーナーを使った独特の展示方法に出会う。これは上田が展示直前にアトリエでテストして思いついた手法だった。大きな会場で模型を作って計画的に配置するよりも、その場の直感を重視するという。会場に来て初めて感じたことを大切にし、記憶のなかから浮かび上がってきた作品を次々とつないでいく。
このプロセスから生まれる「ワクワク感」こそが、作品を観る者にも伝わる。理屈やテーマによる構成ではなく、純粋な感覚によるつながりを重視した本展は、作品同士の有機的な対話を生み出している。
ところどころに上田の家族を写した写真も現れる。〈At Home〉シリーズの作品群には、興味深い特徴がある。ここに悲しみの表情をとらえた写真は存在しないのだ。上田によれば、家族を大切に思えば思うほど、悲しんでいる瞬間にカメラは登場しない。その結果、家族のアルバムには微笑みや喜びの表情ばかりが残ることになる。それは愛情の表れなのだという。
初期の作品がモノクロで撮影されているのは、当時カラープリントを自宅で行うことが困難だったからだ。自分の手で作品を完成させることを重視していた上田は、暗室でできるモノクロプリントを選択していた。また、子供の予測できない動きをとらえるため、つねに手の届く場所にカメラを置いていたという。
「子供たちは予想外の動きをするし、予測できない。いつでも撮れるよう、手の届くところにカメラがあるようにしていました。面白いと思う瞬間があっても、『もう1回やって』とはいかないですからね」(上田)
いっぽう、著名人を撮影したポートレイト作品では、上田の異なる一面が見える。事前にプランを立てることはなく、被写体と会った瞬間の直感を何より大切にしているという。予測できない状況で被写体がそこにいたという出会いの瞬間こそが、写真の本質だと考えているのだ。
会場を一周して、40年間の軌跡を振り返った上田は意外な感想を述べる。「学生時代の作品と何も変わっていないような気がする」のだという。撮影対象こそ変化したものの、世界に対する向き合い方は変わっていないと感じているのだ。
この言葉を裏付けるように、今回初めて大きく引き延ばされた学生時代の作品は、まるで「この間撮ったようにしか見えない」と上田が語るほど新鮮な印象を与える。技法や被写体の変遷はあっても、写真に向かう基本的な姿勢に一貫性があったからこそ、時代を超えた普遍性を獲得しているのだろう。
最後で上田は今後の展望について語った。
「命の大元を探して、この地球をもっと撮りたいです。特別な場所に行って、特別なものを撮るのではなく、日常のなかにあるもの、すごく近いところにある、まだ気づいていないことを撮りたいと思います」(上田)
加速する現代社会のなかで立ち止まり、命ある瞬間にカメラを向ける。そんな上田の写真への姿勢は、これからも変わることはないだろう。40年という長い時間を通じて一貫した写真への愛情と、つねに新しい発見を求め続ける探究心が、本展のもっとも印象的な部分として記憶に残る。会場を訪れ、上田が見つめ続けてきた世界を体験してみてはいかがだろうか。
灰咲光那(編集部)
灰咲光那(編集部)